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  • Luna

「女性」としてではなく、「私」として生きることに価値がある


先日Blossom the Mediaに投稿された記事「ガールズボス?興味ない」の記事を読んで、女性として生きるのがどういうことかについて考えた。


女性としてどう生きるのが正しいのか——。


「いつ一人になっても生きていけるように、仕事を持ちなさい」

専業主婦からシングルマザーになった母親が放った一言は切実だった。


「捨てられないように若さをできるだけ保ち、万が一捨てられた時のために仕事は持っておこう」

それが数年前まで私が持っていた、受け身100%とも言える考え方だった。


理想の母親像とキャリアウーマンの両方を兼ね備える必要性が、今の時代に女性として生きるには必要だと思ったからである。


恋愛の評価基準では、未だに女子力や料理の腕、包容力などが求められると感じることが多い。でも同時に社会は変わってきていて、今では女性が働くことが普通になってきている。そして子供が欲しい場合は教育費の心配などから、仕事をする能力も持たなければならない。



社会に適応していない、辛い、と感じることがある。だから社会に歩調をある程度合わせなければと思うことは多い。


ジェンダーに関して言えば、伝統的な考え方が家庭や学校、社会にまだ存在している中で、ジェンダーレスや男女平等などの新しい考え方が入っている状況だ。


私たちはどちらにも合わせないといけないのか?しかし、それはなかなか難しいことだ。


革命が起こる時、古い考えが捨てられて、新しい考え方が受け入れられる。


ただ人の価値観に関してはこのスピードは、とてもゆっくりである。


価値観に正解などない。であるなら新旧の価値観には共存もあり得るのではないだろうか。


しかし実際は共存できていない。だから一昔前の古い考え方を持つ人。新しい考え方をベースに生きる人。両方の価値観を大切にする人。

それぞれが生きにくいと感じてしまうのではないか?


この変化が激しい社会の中で、自分はどういう立ち位置で生きればいいのだろうか?その疑問の答えのヒントを、最近公開された映画「Barbie」が教えてくれた。


“I’m Kenough.”

映画の登場人物のケンは、ケンであるのだから、ケンでいれば充分である、という意味だ。言い換えると「自分は自分でいればいい」と言うことだ。


私は女性だからこう生きなければならない。日本人だからこう振る舞わなければならない。周りが期待するからこれを目指すべきだ。受け身の姿勢のままでいては、自分という価値が見出しにくいことに気づいた。


他人の掲げる理想像や世間のスタンダードとされるものに、完璧にフィットすることは不可能だ。それらに合わせようとすると、いつまでも自分は自分に満足できないだろう。


だから自分という人物について知り、自分の価値観は何かを探り、主体的に生きる。


それは決して日本が個人主義でなければいけないということではない。日本は文化的に、集団主義的な社会の色彩が濃い。


伝統や文化を捨てる必要はない。ただ、集団の中で個人としても生きやすい環境を作っていくことで、皆が自分の能力を発揮し、既存の社会に新たな価値を付け足していけるのではないか?


どんな選択もしやすい社会に

どんな選択も尊重される社会に

どんな選択をしても生きやすい社会に


それは私たちが作り上げていくものである。




著者 Luna

編集 岡田笑瑠

グラフィック Claudia MacPhail

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