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  • Himawari Murano

うつ病の考え方について思うこと

内容注意:自殺について書かれています。


「もう死にたい」


小学生の頃、父はよくソファで呟いていた。


口癖だった。今は元気な父親だが、当時は毎日のように言っていた。それが当たり前過ぎて、あまり気にせずにいた。それでも7歳のこどもの前で、そんなことを毎日呟きながらソファで寝ていたこと、今思うと普通ではない。


父は当時、携わっていた業界でも怖い人で有名だった。家庭内でも、私が筋の通らない様なことや間違えたことをした時には、容赦なく厳しかった。そんな父だったけど、人一倍心が繊細でもあったし、困っている人がいたら放っておけないような人だ。そして、とても不器用だったけれど私が知っている誰よりも愛のある誠実な人だ。


だけどそんな姿は表ではあまり見せない人だった。だから、厳しくて、怖くて、貫禄がある父親のことをよく思わない人は沢山いたかもしれない。そんな厳しくて恐い人だと業界では有名だった父親が、家にいると「死にたい」と連呼している。ソファで鬱々と寝ている姿を、誰が想像するのだろう。


みんな外の姿と、内の姿は違う。それはとても自然なことだ。


それでも最近、私の友人の一人は仕事を休んで、数日布団で寝ていたことに罪悪感で苦しくなっていた。「みんなが頑張れてるのに、自分だけがこんなことで頑張れないなんて、苦しくて悔しくて自分の生きる価値なんてないんだ」と言っている。


「疲れた時は仕事も休んでゆっくりして、また元気になったらでいいじゃん」と声をかけたかった。だけど、無責任なこと言えなかった。それでも生きる価値がないって思ってしまうくらい、今君の心の元気はなくなってるんだよ、と思う。


落ち込むことや、元気が出ないことを周りに見せる事はそんなに悪いことなのかな。


頑張れなくなって、休むことはそんなに恥ずかしいことなのかな。


なんだかみんな我慢しすぎている気がして、隠すことが普通になっている気がする。弱音を吐くことが恥ずかしいと思う社会の空気に違和感を覚える。


欧米でのうつ病の有病率が20%〜30%であるのに対し、日本では10%と極めて低い調査結果がある一方、自殺率に関しては先進国の中でも日本は突出している。


有病率が低いにも関わらず精神疾患を理由とした自殺率が高い原因は、軽度の不安障害や適応障害から重度のうつ病に至るまで、「つらい」と感じた時に医療機関を受診するハードルが極めて高いことが理由にあるそう。


以前の私はいつも根底にある自分の性格を否定しながら、自分が何を望むかではなく、他人が自分に何を望むかにフォーカスを当て続けていた。円滑に進めて、揉めずに、嫌われないようなポジティブな自分を目指していた。それでもモヤモヤを隠し、自分の感覚を否定し続ける方法は、維持できるものではなくなった。


それでも私は、自分の身に起きたうつ病や、友人や父の落ち込む姿、祖母の更年期に伴った長期間にわたる薬物療法、そして友人の自殺を通して、ここまでメンタルヘルスを隠し続けなきゃいけない理由がなんなのか、そうさせた原因はなんなのか、もはや分からなくなっている。


どうして体調に起こる病気はシリアスに捉えられるものなのに、メンタルヘルスになると「メンヘラ」という言葉などで揶揄されてしまうのだろう。


そんなことを考えていると、海外にいた当時、2週間に1回セラピーやコーチングを受けてる人が沢山いたことを思い出した。私が以前滞在していた欧米では、日本よりもメンタルヘルスへの偏見がなく、自分のメンタルケアの方法を理解している様子。欧米にはカウンセリング文化があり、なにかメンタルに不調があればカウンセリングを受けてみる、と美容室で髪を切るのと同じような感覚で受診する人が多くいるそう。一方日本では、メンタルに不調を感じて心理カウンセリングを利用した経験のある人は、わずか6%との調査結果があり、欧米の52%と比べるとカウンセリングを気軽に受けられない、という認識を持つ人はまだまだ多い。


当時、私のことをよく可愛がってくれた、とってもお洒落でかっこいい女性がいた。その方も「午前中はセラピーを予約してるから午後から遊ぼう」なんて話をしていて、そのナチュラルな感じが凄くいいなぁと思った。私は海外の女の子のYouTubeを観るのが好きだ。そこでも自然にそういった発言や、姿がナチュラルに日々に出ている様子はよく拝見する。そしてカバーも、雰囲気もとてもイケてて格好いいのだ。


そんな風に感化され、私自身もメンタルの不調を抱えていなくとも、俯瞰的に自分を観たり心の整理をするため、月に1度ほどオンラインでセラピーを受けている。個人的には終わった後、心の中が整理されてすごくスッキリする。


メンタルの不調を改善するときに大事なのは、一人で抱え込まないこと。

まずは誰かに話すこと。

自分の話を聞いてもらうだけでも、すごく改善効果があります。


それでもメンタルヘルスの話は誰にでも話せるものではない。自分の心の中をじっくり、時間をかけて話せる場所があると言うことが、セラピーを始めて1番よかったこと。


様々なことが続いた時期、友達が自分で命を奪ってしまったことを知ったあの日。張り詰めていた糸がプツッと切れた。今まで普通にしていたことができなくなった。初めての経験だった。胸のカップは3サイズも落ちて、生理も止まった。涙が止まらない日々が続いて、見かねた母親が病院を探してくれ、人生で初めて心療内科に行ったあの日。


いつだってさっぱりした明るい自分で居たかったのに、心のコントロールもできなくなった自分が、恥ずかしくて落ちこぼれたように感じた。「こんなところに行くなんて絶対に誰にも知られたくない」と思っていた。


だけど、そこまで思い詰めていた当時の自分も含めて、メンタルヘルスに対しての社会の空気感を変えていかないと許せるものすら許せず、誰にとっても生きづらくなる社会は誰にとっても良いものではない。


生きているとみんな、様々な時期がある。上手くいく時期、楽しい時期、頑張れる時期。そうでない時期も同じようにある。だからこそ、みんなが否定しない空気感が欲しい。


メンタルヘルスについて考えることが「隠すこと、恥ずかしいこと」という捉え方よりも、「自然体で、健康的なこと」という風潮には変えられるのはどうすれば良いのだろうか。


まだまだ、日本ではカウンセリングやセラピーなどのハードルは高く感じる。このメンタルヘルスへの向き合い方を変えるのはまだ少し先の未来かもしれない。


とはいう私も当時、どれだけ身近な存在でも周りの人に自分のメンタルヘルスについての話をすることができなかった。自分の暗い部分を人に話すことで離れてしまうことを恐れ、相手に負担をかけなくないと思っていた。


だからこそ対価を払い、専門の場所で自分のための時間を作ったことは、その後のステップアップに繋がる大きな材料になった。ある意味、1番理論的な選択だと今は感じている。


そんなふうにナチュラルにセラピーを受けることができたように、読んでいる方がカウンセリング、コーチングやセラピーなど、様々な種類から自分に合ったメンタルケアを視野に入れてもらえればなと思い、今回自分の体験したことを記事にしました。


メンタルが不調な時、ライフスタイルや、メンタルケアについてのポッドキャストを聴いたり、ジャーナリングをする。親しい友人や、家族のような身近なプラットフォームでお互い様精神の空間づくりをすることも大切ですが、このようなツールもあるんだと思えたら嬉しいです。


いつでも頼れる場所があると思うと、以前のようにメンタルの波が激しくなることはなくなりました。そして、周りにも自分にも、許容範囲が広がりました。

気負いせずに、落ち込む自分を責めないで。

私はそれも含めて、健康で、自然な生き方であると思います。


今月も、自分のペースで




著者 村野向日葵

編集 岡田笑瑠

グラフィック Claudia MacPhail

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