好きな言葉や事、行動、色、物、紙に書いてみた。
文字だけなのに、目に通すと気分が良い。
反対に、嫌いな言葉や事、行動、物も書いてみた。
なんだか、もわもわした。あんまり目を通し続けると、気分が悪くなる。
これは自分の感覚そのままだ。
深いところまで物事を考える私には、時々、何がやりたいのか、何がやらなくてはいけない物なのか、見分けが付かなくなる。
だけどこうやって可視化した時に、意外にも気がつかなかった自分の感覚がわかる。
これは文章を書くことが増えて、気づいたこと。
ある心理学者は、安心について学び続けたら自分の安心するものがどんどん分かっていって、生きやすくなったんだって。
私は心理学が好きで、そんな本を沢山読む。
たしかに人によって安心するものも、幸せだと思う価値観も違う。
だけど現代の私たちは、SNSを通していろんな人生をロールプレイできる時代に生きている。
「類は友を呼ぶ」と言われるように、私たちは毎日近くにいる人たちと服装や食べ物の好み、考え方などの価値観が似るようにできている。毎日SNSで色々な人の生活を無意識に見ていたら色々な良さがある。みんながキラキラして見える。可愛く見えるし、オシャレに見える。
そうこうしていると、どれもこれも良く見えてきて、本質がわからなくなる。
元気がない時は、それらがとてつもなく羨ましくて、ちょっと重くて、自分が劣ってみえることがある。
SNSと共存している今、自分よりも周りの波に意識を向けすぎるとその気持ちは連鎖する。
実際はそうではないかもしれないSNSの中にある、キラキラ表面的な映像のものやポジティブな言葉に惑わされすぎると誰かが劣等感を持つ。
劣等感を持った人がまたキラキラを見せようとして、本物ではない気持ちや、魅せ方をする。
それで誰かがまた劣等感を持つ。
なんだか最近、こんな感じのものが多い気がしている。
ポジティブ、キラキラ=正しいみたいなものが多すぎて、ちょっと息苦しいムーブメントになっているというか、本質的ではないと感じることが多い。
順応性豊かにいけたらいいけど、バランスは難しい。
みんなが持っているからという理由で欲しくなる時があるけど、実際本心からくるものではないものも結構ある。
最近の私の幸せと感じたメモ
眠れなかった早朝、朝ごはんを作ってぼーっとすること
仕事終わりに好きな音楽を聴きながら散歩をすること
その足で銭湯に行くこと
知らない人とゆるゆる話すこと
つまみと飲むビールの一口目 🍺
髪の色を染めたり、メイクを変えたりすること
ピラティスした日の翌日の筋肉痛
猫と寝ること
自分の感覚そのまま書いた文章を誉めてもらえたこと
その作品が大手のデジタルメディアに載せてもらえたこと
そうしたらずっと憧れていたこの場所で活動ができるようになったこと
自分で一から始めた仕事では、ほんの少し目に見える成果が生まれたこと
自分の感覚そのままも、ほんの少しずつ信じられるようになってきたこと
この幸せメモは、良いか悪いかではない。
私が幸せと感じた、ただそれだけ。みんなそれぞれ幸せの基準は違う。
だけど、多数的な他者目線のものではなく素直に自分が感じる幸せだと知っている行動は、間違いなく自分にとっての幸せな出来事を連鎖させた。
疲れた時、傷ついた時、元気がない時、焦りがある時、掴もうとする幸せの中身が素直な自分の幸せなものではなく、他者目線の幸せだとしたならば。
どれだけのモノを手に入れても、それは一瞬の幸せだけで、長く続くものではない気がしている。
それでも私たちの国は政治的や文化的なものから、どうしても多数派の人生が正解だという教育を受けてきた。
例えば大学に行くことや、良い会社に行くこと、結婚をして子どもを産むこと。
今までの日本の良しとされてきた考え方のものが、自分の本質の幸せだと感じられることならそれもいい。
だけど、本当に望んでいる姿ではないのに、他者からの評価や圧に押され、
なんとなく多数派であるものにコマを進めてしまったことが私にはある。
あとでやっぱり長続きしない幸せだと分かり、それが自分の望んでいないものだったと気付く。
私の周りには早く結婚しないと、すぐおばさんになって取り残されちゃうなんて笑って言っているともだちが結構いる。なんだか、それ自体を自然に言えちゃうマインドってどうなんだろう。そういう社会になったのは、なぜだろうか。
その空気感が令和になった今でも続いているのは、正直うんざりだ。
色んな経験を重ねてきた人が、「もうおじさんだから」「おばさんだから」「まだ独身だから」なんて自分で言わないでほしい。そのままで別にいい。自分の価値は自分で決められる社会がいい。
だけど、私たちは協調性のある国で育ってきたし、我慢もするし、頑張れるようにできている。でも最近、と言うかずっと、私たちは型にはまろうとすることに頑張りすぎている気がする。我慢は美徳だと思いすぎている。それぞれ、性別や年齢、セクシュアリティや容姿、職歴や国籍など、色々な考え方やルーツをもっているのに。
私は限られた「普通の人」を基準にするのではなく、色々な「普通」を受け入れてくれる社会がいい。
みんなにある、柔らかく傷つきやすい部分を守ってくれる空気感を持った社会がいい。
自分の本質がわからなくなってきた時、言葉、もの、こと、行動、色、なんでも書いてみた。
書いてみて、可視化してみる。
自然的かどうか、そこにウソがあるか、
ピュアなものか。受け入れ、そのままであること。
こんなことが好きだと分かる。
と言うか、これがしっくりきた。
私の大切にしたいものは、きっと今までもこれからもこのままだ。
ちゃんと自分で分かっていると、選ぶものや生き方が変わってくる。
そして誰みたいになりたいとかはない。このままの自分でいい。
何を伝えたいかと言うと、みんなそのままでいい。
本当は気分が落ちているのに、無理にポジティブにして、フェイクになるくらいなら、
ポジティブであろうとすることより、本当の気持ちであることのほうが大事だ。
何が好きか、何を大切にしているかわからなくなった時、
そんなふうに自分の好きな言葉や色、その言葉を書いてみた時、
自分の軸に戻って、新しく気づけることは意外にも多いのかもしれない。
それくらい、私たちは難しいようでシンプルだ。
「こうならなくちゃ」「こうでいなければ」の前に、なんの制約もなかったとしたらあなたがなりたい姿は、どんな姿だろうか。
著者 村野向日葵
編集 岡田笑瑠
グラフィック 安藤桃花