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  • S.L. Chan

それは文化的なことではない。


日本で勉強しながら生活して二年になる。

日本は最高だ。素敵。素晴らしい。私の夢。

そう思えたのは、私が自分の気持ちに正直になっていない、と気付くまでだった。

いつから日本は素晴らしいと思えなくなってしまったのだろう。


日本での二年間は、何ものにも代え難い素晴らしい経験をたくさん与えてくれた。世界の様々な地域から来た人達と出会い、日本と聞いて考えられる全ての素敵なものに囲まれていたからだ。


しかし、この二年間がどれだけ素晴らしかったと言い続けていても、何か私の中に無視できない感情がある。未だに居心地が悪く、場違いに感じていて、この感覚は一向に無くなりそうにない。至福の二年間は、私が日本の文化の型にはまるように努力した二年間でもあった。「馴染む」ということについて私がどのように感じているかを簡潔に言うと、日本人の前にいる時は本当の自分でいられると感じたことがないのだ。


「たぶん言葉の壁だろう!」


それもウソではない。日本とは全く異なる環境で育った外国人として、日本語は間違いなく私の第一言語ではない。二十ヶ月間日本語を集中的に勉強し、二年間日常的に日本語で会話しているが、それでも日本語で自分の考えを伝えるのに苦労することがある。それでも日々上達はしていて、以前よりも私の日本語を理解してくれる人が増えていることは確かだが、正直なところ、流暢な日本語を話せると胸を張って言える自信はまだない。


「それなら文化的なことなんだ!」


そう!それもまた大きな要因の一つ。それなら簡単な解決方法は、日本の文化についてもっと学べばいい!そう思い、私は正しい挨拶の仕方や、公共の場で他人に迷惑をかけるようなむやみな行動をしないことなど、日本人の友達から出来ることは何でも学んだ。それにもかかわらず、私は違和感を感じていた。彼らのそばにいる時、なぜ私はまだ居心地が悪いのだろう。ここにいてはいけないと感じるのは、なぜ?自分を理解してもらうためにどれだけ声を上げても、なぜ私はとても小さく、取るに足らない者だと感じるのだろう。なぜ私は、彼らをそんなにも恐れているのだろう。


これらの疑問の答えは見つからないままである。なので不満の残る結論に至った。こんな風に私が感じているのは、私がまだ日本語を流暢に話せず、彼らの文化を理解するための努力を十分にしなかったから。私に問題があるのだ、と。


日本語がとても上手な友達に質問したことがある。(彼は韓国出身だが、日本語を話しているところを見ると日本人と間違えるだろう。彼が日本語でのコミュニケーションに苦労しているのを私は見たことがない。)

「今でも日本人の友達と話している時に何か壁のような隔たりを感じる?」


「もちろん!」


彼の答えは短かく、迷いのない、確かなものだった。その時に私は気づいたのだ。この問題の根底にあるのは言葉じゃない。それなら、文化的なことなのではないだろうか。しばらく考えたが、私の答えはNO。文化的なものでもない。


私が感じているこの距離感や壁、そして疎外感がなぜ文化的なことだと言えるだろうか。


私がここで言及しているのは、日本人との日常的な会話ではない。それよりも、私達が直面している問題について話そうとしているような時のことだ。そういう時は大体同じような理由をつけられて「それは仕方がない。私達に出来ることは何もない。」と言われる。もちろん、親切で丁寧な言い方だが、いとも簡単にあしらわれるのだ。これは、日本人と共同生活を送っている外国人にとっては特に問題である。私達のニーズは常に二の次で、私達に有利になる状況が来ることは決してなかった。ここにどれだけ長く住んでいても、私達はいつでも取るに足らない外国人なのだ。ここでは受け入れられない。


この問題について、同じ大学の留学生と話したことがある。彼らも私と同じように感じていたことにショックを受けたが、驚きはしなかった。そして生徒だけでなく、アメリカ出身の教授も似たような経験があるというのだ。「目に見えないけど、存在している。」と彼女は言っていた。留学生の友達、そして教授との共通の経験を通して、私は自分の気持ちが確かなものだと確認することが出来た。


日本では、個人よりも集団の利益を優先する集団主義の文化がある。個人の目的ではなく、グループでの役割に応じて行動すること。馴染むこと、頑張ること、そして自分の役割を意識することを良きとする文化。それが日本の価値観として何百年も、あるいはそれ以上も続いてきたことは十分に分かっている。私はそれを尊重し、美しさを見出しているのも事実だ。しかし、この文化を言い訳に外国人やよそ者を排除したり、軽視したりして、それを「私達の文化」と呼ぶのは間違っている。


私が理解できないのは、排他性や他の人種に対する偏見が、なぜ文化の一部になり得るのかということだ。それは文化的なことではない。率直に言うと、それは今まで放置されてきた人種差別だ。「日本人だからそういう行動に出ている」と言っているわけではない。彼らの中に根強く存在してきたその考え方に注目してほしいのだ。


「目に見えないけど、存在している。」

その捉え難さゆえにこのように感じているのは、自分だけだと何年も思いこまされていた。とはいえ、私は肌の色が明るいために、見た目ですぐに「よそ者」だと認識される人に比べると、それほど悪い経験はしてこなかった、とも言っておくべきだろう。外見を理由に隣に誰も座ろうとしなかった、という友達の経験を聞いたことがある。私達を傷つけるのは、このようなマイクロアグレッションという微細な行為だ。例えば、コミュニケーションに支障がなくても、私が日本人ではないということを知った瞬間に、少しためらいを感じる人と出会うこともある。


私達は特別な扱いを受けることを望んでいるわけではない。ただ、人として尊敬を込めて話を聞いてほしいのだ。


もちろん、日本人がみんなそうだと言っているわけではない。実際、私が体験しているつらい現状を見て、理解を示してくれた日本人の友達も数えきれないほどいる。しかし、もっと多くの人が立ち上がり、声を上げて問題を指摘する勇気を持つ必要がある。目に見えていないことを可視化していくことが必要だ。日本人であろうと外国人であろうと、私達は同じコミュニティに住んで、繋がりを持っている。なので、みんなに変化を生み出す責任がある。


そうは言っても、自分は誰なんだと思う。日本人ではないので、日本に変化をもたらす権利なんてないんじゃないか。


いや、私達が変えるのは文化ではない。有害で人種差別的な考え方だ。まるでそれが当たり前かのように扱われ、私達は気付かないでいた考え方だ。これは国籍に関係なく、誰にでも起こりうる、内なる偏見。文化は美しいものであり、アイデンティティと言えるだろう。でも、自分が他の人よりも優れていると見なす道具に使われているものを、文化とは言えない。


現在日本に住んで三年目を迎えた。変化を起こす準備は出来ている。この変化は私のためだけのものではない。国籍など関係なく、日本に住む女性そして男性みんなにとって不可欠な変化だ。



翻訳 Mutsumi Ogaki

編集 Emiru Okada

グラフィック Momoka Ando

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