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  • Kiana

忘れられた3.11 – 帰還困難地域の福島県浪江町から「防災」をアップデートする


福島県浪江町。

12年前の3月11日、地震と津波の大きな被害があった町。

そして、隣の双葉町と大熊町にまたがる福島第一原発で起こった爆発事故の放射能汚染により、帰還困難地域に指定され、長い間閉ざされていた町のひとつ。


東北道に現れた「浪江 双葉」の文字。

関東から車でやってきた私たちは、そろそろ外の空気が欲しくなっていた頃。

この文字を見て、原発事故による帰還困難地域のことを思い出し、「寄ってみようか」と偶然立ち寄った。高速道路を降りると、「日本から何年も忘れられていた町」はそこで確かに息をしていた。その存在を取り戻そうとしている人たちがそこにいた。


ガソリンスタンドで明るく楽しそうに働く人たち。

「やっと戻ってきた」そんな声が聞こえそうだった。Yナンバーの私たちの車を見て、カタコトの日本語を一生懸命話す彼を見て、珍しいゲストだと思ったのだろう。嬉しそうに、楽しそうに接客してくれた。


町中の人が集まる道の駅なみえ。お店に入って思わず涙ぐんでしまった。

「この小さな町のどこから、こんなにたくさんの人が集まるのだろう?」

町のみんなが仕事を放り出してここに来ちゃったのかな、と思うくらい驚くほどたくさんの人が町の内外から集まっていた。


たった数年前までは、黄色と黒のテープや赤と白の看板が立ちはだかって誰も入れなかったこの町を、取り戻そうとしている人がいる。それはきっと、浪江町出身の人だけではなくて、福島県の外からも、もしかしたら海外からも、集まってきた人たち。そして私たちのように、ふらっと偶然立ち寄った旅人たち。でも、少し市街地から離れた、まだ2022年に避難指示が解除されたばかりの双葉町に近づくと、さっきとは違う涙が止まらなかった。


津波か地震の痕跡と思しき瓦礫や、住宅の基礎の跡。野生動物が駆ける姿。空き家の窓からぐんぐん伸びる草木。


あの日から、止まったまま。

そしてあの日から、まるで別世界にいるのではないかと思わせるほどに様変わりしてしまったのであろう風景が広がっていた。信じられなかった。何度も復興を成し遂げてきた「災害大国」日本で十数年経っても今なお、こんなに復興できていない場所があるなんて。


フィリピン・セブ島の南端の田舎でも、似たような景色を見た。大きな台風に襲われて崩壊した家屋の跡。何もかもがそのまま数年の時を経ていた。


そうだ、私はセブ島を案内してくれたドライバーさんにも、パートナーの親戚にも、「日本は復興したかい?」と聞かれて自信満々に言ったじゃないか。

「はい。もう12年です。復興して新しい町がどんどんできていますよ。放射能だってもう大丈夫です。日本は何度も震災を乗り越えてきた国なので」


私は間違っていた。「日本は復興したって、その日本ってどこからどこまで?」


私は忘れていた。

日本には、東北にはまだ、傷ついた町がそのまま残っていることを。

少しずつ前に進んで生まれ変わろうとしている町にも、もう二度と取り戻せないものがたくさんあることを。

人々の心の傷は深く、簡単に癒える傷ではないことを。


あの日、あの地震が残したすべての爪痕は、私たちの眼前に、心の深くに、痛くて苦しくて目を背けたくなるほどにはっきりと、たしかにそこに存在している。


そして私はまた、ちっぽけな自分の無力さに涙した。

大学生になったばかりの6年前、友人と南三陸町を訪れて、私はその被害の悲惨さを目にしたはずなのに。当時は震災から5年後だったが、それでも復興の道のりは長いと、たしかにこの目で見てそう知っていたはずなのに。


再び訪れた宮城県名取市閖上地区は、6年前にはじめて訪れた時にはなかった伝承館ができて、津波到達時に一時避難所になるたくさんの高い建物ができていた。たしかにこうして、少しずつ前に進んでいる町もある。被害が大きかったはずの仙台市内だって、すっかり元気で大きな都会に戻っていた。被災地を避けて東北を旅行している友人たちのSNSやテレビ番組を見て、すっかり東北は復興したと思い込んでいた。


原発事故のことは、正直どこかで忘れていた。

「誰も近づくことができないから情報がなかった」なんて言い訳だった。この町には、町を取り戻そうと必死に生きてきた人たちがいる。


この12年、私は何をしてきたのだろう。小学生だった震災当時からあっという間に大人になった私には、もっとできたことがあったのではないだろうか。


私はあの日、北関東の田舎町で大きな地震を経験し、津波で町が流されていくテレビの映像をわけもわからず、ただぼーっと見ていた。そして原発事故後の計画停電を経験した。10年以上たった今も、はっきりと覚えている。


それなのに、事故の後のことを何も知らなかった自分が、外国の人に「日本の復興」を話した自分が、恥ずかしくなった。



今日9月1日は防災の日。


この記事を読む人の中には、3.11を覚えていない人、経験していない人もいるだろう。

あの恐怖を経験していなくても、人々が残してくれた経験談を知ることはできる。震災の爪痕が残る町を見に行って、追体験することはできる。知ることは辛くて苦しいけれど、知っているからいつか助けられる命がある。


この日本に、この地球に、絶対に安全な場所なんてない。

毎日交通事故が起きていて、毎日どこかで銃乱射事件や殺人事件が起きているように、悲しいけれど保証された安全はない。私たちはその不安から残念ながら逃れることはできない。


でも震災は、もし起こってしまった時のために知っておくこと、準備できることはある。

小旅行に行く時くらいの大きさの鞄に詰めた避難セットを準備しておく。

引っ越したらハザードマップを確認して、最寄りの避難所まで散歩してみる。

模様替えの時には家具を固定して、懐中電灯を置く場所を決めておく。

旅行に出かけたら、電柱に書いてある海抜◯mの看板を見て「高台はどっちかな」となんとなく考える。


「防災」と聞くと大掛かりなことに聞こえるかもしれないけれど、怠ったら取り返しがつかないことになるのは、交通ルールや日常の防犯と同じ。

道路を渡る時には左右を確認するように、自宅を出る時には必ず鍵をかけるのと実は同じレベルの、毎日の小さな習慣にできることだと私は思う。


津波で被災した多くの町には、何十年も前の津波被害についての石碑が残っていたように、きちんと昔の人たちは私たちに語りかけてくれている。辛くて悲しい歴史を伝えていくことで、その歴史と向き合うことで、助けられる命がある。


浪江町で過ごした数時間、たくさんのことを教えてもらった。たくさん考えた。

かわいらしい「うけどん」というゆるキャラがいて、美味しいなみえ焼きそばがあって、放射能汚染なんてなかったんじゃないかというくらい美しい自然が広がる浪江町を、私はきっとまた訪れる。


どんなことがあっても進んでいく時の無情さと、それに立ち向かう人々のつくりだす新しい町を勝手に応援しながら、私は防災のアイデアをアップデートしていく。


考える。どうしたら自分を、大切な人を守れるか、訪れる度にきっと私は考える。




著者 Kiana

編集 岡田笑瑠

グラフィック 窪田麻耶

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