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  • Karin Shimoo

「国を捨てる」?形だけの多様性


「人権や価値観は尊重するが、認めたら、国を捨てる人が出てくる。」


「人権を尊重するけど認めない国って、どこのこと話してるんやろ?」


同性婚について問われた荒井前首相秘書官の発言に対して、不快感や悔しさを感じたのは私だけではないだろう。


実際、LGBTQIA+ の人権を守る法整備を求める署名活動の賛同者の多くが、「そういう時代じゃない」「日本人として恥ずかしく思う」とコメントしていた。


同性婚が海外で合法化され始めてから二十年。日本国内でも今まで 「普通」 とされていた、家族や「ふうふ」に対する固定概念を考え直す動きがみられる。私も個人的に大ファンだった『きのう何食べた?』や『おっさんずラブ』などの人気作品の流行のおかげで、若い層に限らずお茶の間のLGBTQIA+ に対する認知度も、ここ十年で徐々に増えてきていた。こういうメディアのLGBTQIA+の描写は必ずしも正確ではなく、むしろ偏見を再生産させることもあるが、性の多様性の関心を広めたことは否めないだろう。また60の自治区が「LGBT差別条約」を施行しており、地域単位でのLGBTQIA+ の取り組みも加速している。


より多くの人が生きやすい社会になってきている … と思っていた。


しかし、蓋を開けてみると、今の日本では「多様性」が まだまだ「形だけ」の建前になってしまっていることがわかった。 そしてこれは政治的な課題だけではなく、私たち一人一人にも責任がある問題だと思う。



「国」という言葉が表す本音


荒井前秘書官の発言の中で印象に残った言葉がある。

それは「国を捨てる」という言葉だった。


この言葉を初めてみた時、 「いやいや、逆にそういう旧態依然とした考えのせいで、仕方なく国を『捨てる』方がいるのに」 と呆れてしまった。ネットフリックスの『クィア・アイ』に出演していたKanさんなどのように、好きな人と家族になるため日本を離れ、同性婚が認められている国へ移住するLGBTQIA+の方はたくさんいる。しかし、海外への移住は「仕事や好きな家族、友達 … など自分が大切にしてるものを諦めざるを得ない状況」に対する「葛藤」も意味する、とKanさんは以前Cosmopolitanとのインタビューで語っていた。


一方で、前秘書官が言っていた「国を捨てる」とは、そういう現状に対する認識ではなかった。「人権を認めることと引き換えに、日本人のアイデンティティが失われてしまう」と主張する言葉だった。この考えは決して少数派ではなく、「(伝統的な)家族の根幹に関わる」という保守的な声に対する考慮により、選択的別姓やLGBTQIA+の権利に関わる法の改革がたびたび中断されてきた。そして今回も「日本文化にそぐわない。強要するのはおかしい」と、前秘書官の姿勢に賛同する意見が度々SNSでみられた。


では、なぜ LGBTQIA+ の人権を認めることが、まるで日本のアイデンティティを危惧することだと思われてしまうのだろう?


すでに全ての人の人権を認めることが議論の余地もないことだと感じる私にとってわからないことだったので、少しリサーチをしてみた。ブログや討論番組などのメディアを通してたくさんの意見に触れた結果、私が出せた結論は「客観的な理由が見当たらない」ということだけだった。ただ、反対派の全員の意見の根底には「日本がこうあるべき」や「 日本の家族はこうあるべき」という先入観を持っていて、その考えを否定する時代の流れを消極的に思う気持ちが強く表れていた。もちろん中には、そういう意見を逆手にとり、自分の地位を上げることや支持者を増やすための政治的な理由で、反同性婚を主張する人もいた。しかし過半数の人は、時代の変化を受け入れたくない、あるいは受け入れられないため、LGBTQIA+への差別を容認してしまっているのだと私は感じた。前秘書官が言っていた「尊重するが認めない」という言葉はまさにこの現状を表した「本音」だったのだろう。



反LGBTはアウト!同調圧力で深まる「本音」と「建前」の溝


「日本の家族はこうあるべきだ」という意見を持つ人と、どう接していけたらいいのだろう?

そして、そういう先入観が私たちの社会の形を左右しているこの現状を、どうすればいいのだろう?


前秘書官の発言が報道された時、世間はそれをすぐに問題視した。政治のアップデートを求める声が、SNSやテレビで流れる街頭インタビューから聞こえてきた。ようやくLGBTQIA+ の権利を認めることが 「当たり前」 になってきたのか、と私は嬉しかった。


その一方で、世間の反応を詳しく観察すると「あれ?ズレてる?」と思ってしまうこともあった。ほとんどの批判の声が「そういう時代じゃない」「G7参加国の中で認めていないのは日本だけだ」という指摘ばかりだった。一体なぜLGBTQIA+ の権利を認めるべきなのか。なぜ同性婚を認めないことが差別になるのか。この理由をしっかり言葉にしていた人があまりいなかった気がする。少なくとも私の目には、「認めないといけない時代だから認めるべきだ」というような主張がたくさん入ってきた。


しかし、LGBTQIA+の人権を認めないのは時代遅れだ!というような一種の同調圧力ができてしまうと、時代の流れに対して消極的な人との分断が深まり、かえって差別につながると思う。ありがちな意見かもしれないが、真っ向から意見を否定してしまうと対話の機会を失い、根本的な問題の解決ができなくなると私は思っている。ネットでよく「LGBTQIA+を認めないのもある種の多様性だ」と主張している人を見かける。


本当に多様な社会とは、色んな人が社会に参加できる社会のことを言う。同性愛者であるがために、学校でいじめを受けたり家を借りれなかったりする今の日本は、決して本当に多様な社会だと言えない。社会の形を変える覚悟を持って、初めて「多様性」が成り立つのだ。


この本当の多様性の意味が吟味されていないからこそ、 今回の荒井前秘書官の発言のようなことが起こってしまう。タヨウセイ、タヨウセイと言われるこの時代に対し違和感を感じていても、それを声に出すことが間違っているように捉えられる風潮がある。そういう社会では、本音では無関心・無知であっても、表向きでは多様性を歓迎するような姿を装う人が増えてしまうかもしれない。そんな建前にすぎない「形だけの多様性」の上で作られた社会が果たして居心地のよい社会なのだろうか?


ジャーナリストの北丸雄二氏の言葉を借りると、今私たちに求められていることは

「炎上の理由に、実体を持たせていなかいといけない(略)なぜそんな時代はもうダメなのか?それをしっかり言葉にすること」

これが鍵になってくるのだと思う。


政治が時代遅れに感じることや、LGBTQIA+ の人権への配慮がなかなか定着しない現状にフラストレーションを覚える気持ちもわかる。一体いつになったら前に進めるのか、と私もわずらわしく思うことがよくある。しかし、勢いで多様な社会を作ろうとしても、結局完成するのはハリボテの多様性だと思う。「形だけ」にならないように、私たち自身も議論の進め方や自分の知識不足を認識することが、今私たちができることの一番のことだと思う。そして政治は、社会の鏡であることを忘れないことも大切だと思う。政治に変化を求めつつ、身近なコミュニティーと一緒に学び議論し、少しずつ意識改革に努めていくことが最善策じゃないのだろうか。



私たちが今できること

  1. 自分の意見を再確認:先入観があるか?そもそもなんで人権を尊重することが大切なのか?

  2. 「なぜ社会を変えるべきなのか」「変化の向こう側にある社会はどういう社会か」と、自分の意見を客観的な理由で裏づける。

  3. 「時代遅れ」「そういう時代じゃない」「人権後退国」「日本だけ」という議論の進め方は避ける。

  4. 政治のあり方は社会のあり方の鏡でもあります。身近なところの意識改革を試みても良いかもしれません。しかし、議論はあくまで建設的に進めましょう。


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編集 Emiru Okada

グラフィック lakila




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