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  • Kokoha

運命に裏切られる時


2022年10月5日、私は知らない人の家に足を踏み入れた。


深呼吸。目を開けて飛び込んできたのは、夕焼けだった。むらさき、もも色、橙色に黄色。美しく渦巻いた雲が漏れた光に溶けている。冷たい風が腕に触れ、私は秋の香りを胸に吸い込んだ。秋の訪れは木の香りと、微かに、夕焼け色に染まってゆく葉の香り。夏が置いていった湿気の中に、涼しげな香りがした。心地よい。


私はスマホを取り出し、夕日にかざして何枚か写真を撮った。思い出に。

いつか見返すことができるように。この夕焼け、季節、空気を。

「本当、綺麗な空だわ」

振り向くと左隣に老婆が立っていた。背が低く、ピンク色の花柄のカーディガンを着て佇んでいた。マスクからのぞく目が柔らかく微笑んでいて、優しそうな人だった。

「はい。思わず撮ってしまいました」私は笑顔で答えた。

「私もやってみたいわ。手伝ってくれない?まだスマートフォンのカメラは使いこなせてないのよ。私が若い頃はこんなものなかったもの」そう言って彼女は自分のスマホを差し出した。私はかがんで、優しくそれに手を伸ばした。


私たちはそれから15分ほど立ち話をした。


彼女は私の年齢と生い立ちを尋ね、私も彼女に同じことを尋ねた。彼女は今88歳で、銀行で働きながら世界中を旅する生涯を送ってきたという。65歳で定年退職を迎えた時、お祝いに同僚から貰った油絵に恋をしてしまい、今は旅行中に観た世界中の景色全てを油絵にしている最中らしい。

「そうだわ、私の絵を見せてあげるからうちに来ない?私の家、ここから歩いて2分の所にあるのよ」と彼女は言った。

突然の誘いに驚いて、私は口ごもってしまった。「嬉しいです。でも、もう日が暮れてしまうし。それに本当に行きたいんですけど、ほら、あなたは知らない人だから。私を誘拐しようとしているのかも?」

「ねえ、88歳のおばあちゃんに誘拐されるようなおバカさんはいないわよ。それに、これは運命よ。あなたとは強い絆で結ばれているように感じるの、私あなたが好きよ」

彼女はクスッと笑った。

私は頷いた。

暖かかった。ごった返したショッピングモールにいる時に感じるような、ベタベタとした湿った暖かさとかではなく、小さな花火が胸の中で静かに上がって、きらめきながら弾けたような暖かさだった。そのぬくもりはキラキラと輝いていた。きっと、私の心が運命なのかどうかを教えてくれているのだろうー彼女が言ったように。


彼女がドアを開け、私は靴を脱いだ。家の壁は油絵で埋め尽くされていて、廊下を歩くとまるでバカンスに行っているような気分になった。エジプトのピラミッドからイタリアのベネチアのゴンドラまで、その壁は自由と無限の可能性に満ちた彼女の人生を私に魅せてくれた。



彼女は私にダイニングテーブルに座るように促すと、冷蔵庫から大福を取り出して私の前に置いた。向かいに座った彼女は、旅のこと、出会った人たちのこと、友達のことを話した。そのたびに気の利いた返事をしようとしたが、彼女はすぐ次の話題に移ってしまった。私は諦めて、頷きながら大きな口で大福を頬張った。


2023年1月18日、私はまた知らない人の家に訪れた。


深呼吸。目を開けて、飛び込んできたのはあの家だった。秋の夕焼けを吸い込んだあの時のような暖かみのある家だ。私は玄関の前に立ち、インターホンのボタンに人差し指を当てたところでためらった。彼女と出会った日からもう4ヶ月が経とうとしている。もし、私が訪ねてこないことに彼女が怒っていたら?もし、彼女が家にいなかったら?もし、彼女が私のことを忘れていたら? 私は人差し指とボタンの間に漂う悲観的な考えを振り払った。何にしろ、彼女は運命の出会いだと言ったじゃないか。


 「どなたですか?」モニターから低い声がつぶやいた。私は私をにらむカメラの前に立って説明した。

「こんにちは。覚えていらっしゃるかどうかわかりませんが、私たち去年の10月に会ったんです。散歩中に出会って、あなたが油絵を見せてくれるって私をこの家に招待してくださったんです」

さっきの声が返事をした。「帰ってください。あなたのことなんか知りません」

私は焦ってスマホを取り出し、あの夜の夕焼けの写真を見せた。

「ほら、これあの日のです。私たちここで会ったんです」私は、モニター越しに必死でスマホの画面を指差しながら言った。

「ああ、はいはい。夕日を見た日ね。あれはあなただったの?」

「はい。あなたがどうしているかなと思ってまた来てみたんです」扉の向こうから微かな足音が聞こえたかと思うと、ドアがパッと開いた。私はほっと息をついた。


彼女はあの時と同じダイニングテーブルに私を座らせると、新鮮な緑茶を淹れてくれた。

「ごめんなさいね、あなたのこと何も思い出せないの。私も年ね…」

「大丈夫です。特に覚えておかなきゃいけないこともなかったですし」私は笑って答えた。正直なところ、忘れたと言われてがっかりしたけれど、それは仕方のないことだと思うことにした。


彼女は私の将来について訪ねた。

「大学に進学する予定です。アメリカの。専攻は教育学とジェンダー研究を考えています。」彼女は困惑した顔でこちらを見ていた。「ジェンダー研究って?」

私は説明した。「ジェンダーについて勉強する学問です。性別とか…」すると彼女は笑った。「ああ、おカマちゃんとかね。気持ち悪いとしか思えないわ。男同士とか、女同士とか、道理に反してるわよそんなの」宙を指差して彼女は続けた。「私が若い頃はそんなものなかったんだけどね。今じゃ政治でも至る所で見るわ。結婚を認めろだなんて!私たちの世代はそう言う人たちに対してある種 のステレオタイプを抱いているわ。ただただ気持ち悪いのよ」


私は静かに頷いて緑茶を飲み干した。言葉を失ったとも言うのだろうか、私は傷ついていた。私は彼女が「気持ち悪い」といった人たちの一人だった。それでも、私は愛想笑いを浮かべて微笑んだ。私は失礼な態度も反抗的な姿勢も取りたくなかった。怒りたくもなかった。ただ、帰りたかった。


「またいらっしゃい!」彼女はそう言った。私はにこりと笑い頭を下げた。顔を上げると目の前には硬く、冷たく、よそよそしい木製のドアがあった。


家への帰り道、背中をナイフで滅多刺しにされているような気分だった。この感覚は初めてじゃない。同性愛者に対する偏見に傷つけられたことは何度もある、だけど今回のは特別に残忍だ。ナイフが背骨にねじ込まれるたびに、私は涙を堪えた。ナイフを持つ手が憎悪と嫌悪で重くなるのを感じる。屈辱と惨めさが粘り気のある深紅の血となって脚をつたい、私のトラウマたちと共にコンクリートの歩道に滴り落ちた。これが彼女の言っていた運命?私たちの出会いは、私が否定されるための運命だと?気持ち悪いと呼ばれる為の?脊椎がプレッシャーと怒りで震え、心臓が泣くたびにズキズキと痛む。私が涙を拭った時、最後にそれは私の耳に囁いた。私が忘れた頃にまた襲いに来ると、いつだってここにいる、と。


その夜、私はベッドに横たわり、か弱い腕で自分の体を抱きしめた。「あんな所、二度と戻りたくない」と思うと同時に、自分勝手だとも思った。彼女の元を再び訪れたのは。それが運命なのだと信じたのもだ。秋の散歩中に偶然出会った少女を、彼女は親切にも家に入れてくれた。彼女は世界にひらけていて、私のセクシュアリティも受け入れてくれるだろうと図々しくも思っていたのはだった。だから私は、あれほど非難されても黙っていたのだと思う。彼女を責めることができない私がいた。彼女は年配で優しかったけど、私が 「おカマちゃん」たちの仲間だということも知らなかったのだ。けれども、怒り、傷つき、疲れたもう一人の私は、またあそこに戻って自分のために立ち上がりたかった。


でも、できなかった。私はバカだったのだ。散歩中に出会った見知らぬ人に夢を見ていたバカだったのだ。


この物語にハッピーエンドなんてものはない。あれからちょうど一ヶ月が経つけれど、彼女の言葉は未だに私を傷つけ、痛めつけていて、繰り返すあの日のフラッシュバックに私は疲れ果てている。涙を止めどなく流し、日記を止めどなく書いたけれど、何一つ充分だとは思えなかった。「これで過去が消えたら」と祈って、10月の夕焼けの写真もスマホから消した。彼女と出会ったことも、彼女の家に戻ったことも後悔しているし、できることなら全て無かったことにしたいと思っている。けれど、それはできない。そして、同性愛者に対する偏見が私の背中に刻んだ傷はいつまでも残り、秋の夕暮れや、美しい油絵、暖かいドアに隠れているそれに、これからも惑わせ続けられることも知っている。私のか弱い心は今、今度は裏切られないことを願いながら、「運命」 に寄りかかっている。




翻訳 Ann Oe

編集 Emiru Okada

グラフィック Momoka Ando

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