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  • Mia Glass

感情をコントロールするのをやめよう


昔、自分の感受性の豊かさが大嫌いだった。


どうしてニュースを見て泣いたり、友人の感情を自分のことのように感じたりするのだろう?家族には「そんなに大げさになるな」「感情的になるのは時間の無駄だ」とよく批判された。そんなこと言われても自分ではどうにもならない、好きでこんなことをしているんじゃない、と言い返したかった。ヘトヘトになるし、やめられるものならやめたかった。


そんな時、ピアノを習い始めた。ピアノの先生は、それまでの私の常識を覆すかのように、目の前の譜面を情熱を込めて演奏するよう促してくれた。魂の奥底に仕舞われていた感情を引き出し、曲に命を吹き込むよう後押ししてくれた。彼女は私に(もちろん、大切なピアノを汚さない程度に)泣いたり、笑ったり、音楽を全身で感じ取って欲しかったのだろう。例え私が譜面を完璧に、一寸の狂いもなく弾けても、感情が十分にこもっていなければ先生は満足しなかった。


文章を書くようにもなった。英語は、最も好きだった教科の一つだ。先生の選んだありきたりな古典文学が別段好きだったわけではないが、書くことが大好きだった。自分の気持ちや考えを上手く口にできない時、ペンと紙が、そっと私の心に寄り添ってくれた。ひとたび文を綴り始めるとページ上の言葉一つ一つから、まるで生きているかのような温かみを感じることができた。思いがけず、英語の先生達に感情の豊かさを褒められるようになった。次第に「もしかしたらこれは誇ってもよいものなのではないか?」と思うようになった。


初めて絵画教室にも通った。絵がとりわけ得意だったわけでもなく、謙遜抜きに、教室のほとんどの人が私よりもはるかに上手だったように思う。にも関わらず、先生はいつも「美亜は自分を表現する術を熟知しているね」と褒めてくれた。もちろん、何かしらの婉曲表現で、先生がお世辞を言っていただけなのかもしれないが、これも自分の感受性の豊かさが認められた瞬間の一つだったと思いたい。「自分を表現する」— 端的に感情の大切さを伝えるのにぴったりである。


でもある時、鬱になった。何も感じられなくなった私は、元の感受性の強さを恋しく思うようになった。ただただ泣いて、怒って、愛を感じ、与え、喜びを感じられたらと、強く願った。以前のように、何かを創作することができなくなった。音楽も、執筆も、アートも、自分の感情抜きで形だけの空虚なものとなった。今まで必死に抑え込もうとしていた自分の部分が、初めて恋しくなった瞬間であった。


多くのアジア系の家庭では、感情を好ましくないものと見なし、弱さの現れだと考えがちだ。何年もの間、人前で涙を見せまいと我慢してきた身としては、その深く染み付いた考えを捨て去るのは容易いことではなかった。


しかし、あらゆる感情を“感じすぎる”人達に、私はこう伝えたい。あなたのその繊細さは尊重すべき資質なのだ、と。簡単に泣いたり悲しみを感じたりすることができるということは、真の喜びや愛を感じることができるということでもある。ただ当たり前に呼吸しているだけでなく、本当の意味で生きているということでもある。完璧でなくとも、他人の心に響くものや、生きている実感を与えるものを作り出すことができる。この文章を書きながら、少し感傷的になってしまっているが、そんな自分を抑え込む必要性はもう感じない。


昔、自分の感受性の豊かさが大嫌いだった。しかし、今では何とも引き換えはしない、何よりも大切なものである。




編集 Emiru Okada

翻訳 Yuko C. Shimomoto

グラフィック Maya Kubota

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