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  • Marina Ogawa

惚気文化


惚気という日本語はあまりいいイメージはありません。むしろマイナスなイメージで、惚気るのはよくない、自分勝手、自己中心的などのイメージがあります。恋人との嬉しかったエピソードなどを気軽に話したり共有することは社会的にハードルが高いのが今の日本社会だと思います。それに対し海外では、みんな基本的にオープンに恋人の有無、恋人との話をします。日本では聞かれないと話せない、自分から話すのは少しおこがましいという雰囲気がある中、そんな海外の社会性は素敵だなと思いますし、日本でもそうなって欲しいなと思います。


ある日のエピソード。バイト先でアメリカ人で日本に語学留学できている学生さんがいる。職場で英語が話せる人が少ない中私が喋れるので英語で話したりすることが多々。彼はよく彼女の話を楽しそうにして、自分が今の恋人ができた最初の頃のことを思い出しました。特に最初は恋人ができて嬉しかったり、それをたくさん話したくて、そうしていましたが、友達や親に、そんなに惚気てばっかりじゃ嫌われちゃうよ、などと言われることが多々ありました。なんで?と疑問でしかなかったですが、そんな日本の文化に溶け込み、それから今は人に聞かれるまで自分からは恋人の話はしないように気を付けるようになりました。そんな私には彼はとても自由に幸せそうに見えました。こうあるべきだと思わされましたし、改めてこういう日本の社会性の問題提起をさせてくれるきっかけとなりました。


では惚気ることは、なぜそんなに日本ではダメなのか。「リア充」という言葉があるように、日本では特に恋人がいることが充実していて幸せで、1人だと不幸せ、悲しい、孤独という社会的イメージが根付いています。この社会的基準によって一つ目に、同じように恋人がいない人を相手に惚気てしまうことは相手を思いやれていないことになるという文化が派生しているのではないかと思われます。二つ目に、よく耳にする「マウンティング」になることが考えられます。この場合、リア充でいることをアピールして相手より有意な立場にいることを示そうとしていると思われてしまうことです。まとめると、日本の人を思いやる過多な必要性と、マウンティングの危険性を過多に気をつけなければならない近代日本文化によって、惚気ることがタブーとなってしまっているのではないかと思われます。


私の経験した上記のエピソードでは、相手が日本人ではなかったため日本のそういう文化や社会性を知らずに恋人の話を嬉しそうにする彼を純粋に受け入れられたかもしれません。日本の社会性を身につけてしまっている私がもし日本人の方に惚気を話されたら違うように受け取っていたかもしれません。そう思うと、人の幸せを素直に受け入れられずに少し捻くれた考え方になってしまう日本の社会性が問題提起の的だと思います。自由に意見を述べられる、感情を述べられること。惚気や幸せなことだけではなく、ネガティブな体験・感情をシェアできることも同等に大切で重視されるべきところです。何かのトラウマや心の傷を抱えていることによってある特定の話を聞くのが辛い場合は別ですが、そうでない場合で素直に話を聞けないようになってしまうのは嫌だなと私は感じました。そんな社会性の日本人を減らし、より豊かな人間性をみんなで身につけられる国にすべく一人一人がまずは聞く力を少しづつ身につけ、話す勇気を持つと日本は変わると思います。いろんな生きづらさがこうして少しづつ解消していけばいいなと思います。




作者 Marina Ogawa, Mutsumi Ogaki

翻訳 Ariel Tjeuw

編集 Emiru Okada

グラフィック Ayumi White

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