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  • Mia Glass

ミックスの視点から考える美の基準



鏡を見るたびに私が直面していたのは、圧倒的な自信のなさと押し寄せる不安の波。自分に向かって少し微笑んでみると、父譲りの大きな鼻が強調され、日本人の母譲りのアーモンド形の目が見える。肩に届く長さの髪の毛は、柔らかく深い茶色で、くるくると巻かれている。頬に軽く触れると少し痛みを感じるのは、私の白い肌が日に焼けやすく、赤みを帯びているから。そして少し後ろに下がると見えるのは、私の長い脚と幅の広い腰。これは私のアメリカ人としての側面を、明確に表わしている。この様々な特徴の奇妙な集合体を見ると、いつも自分は何か違っていて、魅力がないと感じてしまう。


東京とニュージャージー州を行き来しているうちに、対照的なまでの美の基準をゆっくり理解していった。アメリカでからかわれた私の目は、大きくて、茶色で、二重であるがゆえに。日本では称賛の源になる。日本人は私の鼻を羨ましがり、「鼻が高い!」は誉め言葉として使われる。日本のドラッグストアに化粧品を買いに行くと、そこで働く女性達は私の「美しい白い肌」を指摘し、パーマをかけているのかどうか尋ねてくる。飛行機に飛び乗ることで、私の身体的特徴に対する周囲の反応はこんなにも変わるのだ。


美の基準がこの2つの国でこんなにも違うなら、どうしてこんなに見た目を気にしているのだろうか、と自問し始めた。アメリカでは、完璧な休暇を装うために偽に、日焼けをしに行く人がいる。「日焼け止めをつけて日光を避けるように」という日本人の母の願いとは裏腹に、私はいつも日焼けをしたがっていた。しかし年を重ねるにつれ、日本では肌をより明るく、白く見せるような美白商品があることに気づいた。私の周りの誰もが、どの国にいようと、自分には持っていないものを欲しがっていた。アメリカの高校では、カーリーヘアーの人は毎日髪をコテで真っ直ぐにし、直毛の人はボリュームを出すために髪を巻いていた。鏡の中の自分を見たり、雑誌やソーシャルメディアで非現実的な写真と自分を比較したりする時に、私たちは自分がないものねだりをしているとは分かっていても、どういうわけかその事実を無視してしまう。


自分がミックスということで、言語や文化の違いに気づいただけでなく、日系アメリカ人として育ち、美の基準がどれほど主観的で取るに足らないものであるかを理解することが出来た。自分の自信が持てないところが、他の場所では価値があるとされているのを知った時、私は気にするのをやめた。目の形を際立たせるメイクをして、体の曲線を引き立てる服を着て、色白の肌を守るための日焼け止めをつけ始めた。多種多様な人々と好みが存在する中で、みんなのために設定された「基準」なんていうものはない。美はとても主観的で、自分の身体的特徴のすべてが万人受けすることは決してない。しかし、あなたの美しさを客観的に見ることが出来る唯一の人は、あなた自身。あなたの外見をよりオープンマインドで見ることで、あなたも何百という文化の美しさを持っていることに気づくだろう。



グラフィック Emily Mogami

翻訳 Mutsumi Ogaki

編集 Emiru Okada

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